風は参河より 野田城址〜吉祥山

日時 2025年5月24日(土)

山域 吉祥山(新城市・豊橋市・豊川市)

メンバー TN(記)、NS

今から452年前、東三河は武田信玄という大暴風雨が吹き荒れており、中でも台風の目となっていた野田城の動向は日本中の耳目を集めておりました。今回は、武田信玄の猛攻に約一月耐え抜いた野田城主菅沼新八郎定盈を廻る山旅です。が、例によって、こんな酔狂な山行に付き合ってくれる会員は望み薄で、NS師匠と2人で行って来ました。

大野田城址〜市街地の地図読みは鬼門

野田城駅に降りた我々攻城隊は、駅前の案内板に大野田城址の案内を見て狂喜し、野田城を落とす前に、駅から近い大野田城址に寄って行くことに。だがしかし、駅の案内板の道順通りに歩いていた筈が、何処で道を間違えたのか完全に道に迷ってしまい。近道をしようとせずに素直に幹線道路を歩けば駅からすぐだったのにと思ったのでした。さすが、大野田城、簡単には攻め落とさせてもらえません。野田城修理中の仮城だという大野田城は、綺麗に下草が刈られ、通路はウッドチップが敷かれるなど、しっかり整備されていて、地元の方々の熱量を感じました。

野田城址〜城主菅沼新八郎定盈の奮闘に涙す

大野田城址を落とすのに散々道に迷った我々攻城隊は、次に野田城址にむかうのでしたが、これがまた案内が少なく、犬の散歩をしていたオジサンからの「いいから道を聞きなよ」オーラをビンビンと感じた我々は、素直に道案内を乞うのでしたが、地元の方の話したい熱量は素晴らしいものがあり、恐らく、野田城までの道のりは地元の方に道を聞くべしの方針のもと、案内板は最低限なのだと推測したのでありました。たどりついた野田城址は、数年前に訪れたときよりも若干荒れていて、二の丸は藪でした。この城兵400人の小さな城が、2万5千人の武田信玄の攻撃に約1ヶ月間耐えたことに驚きを禁じえません。我々は、本丸の一角にある武田信玄狙撃場所で影武者の世界に浸り、隣の法性寺にある武田信玄被弾場所で信玄の無念に感じ入ったのでした。

吉祥山〜新城側登山道は1年会わざれば刮目して見よ!

野田城攻略時点で、まだ山にも登っていない状態で時計は既に11時近くになっており、既に満腹状態の我々でありましたが、ミッションを遂行すべく次なる目的地の吉祥山をめざしたのでした。すると、大谷橋の手前に以前にはなかったパン屋が出来て客が行列を作っていたり、登山道の標識が新しくなっていたりで、久しぶりの吉祥山は以前とはかなり変わっていました。吉祥山の新城側の登山道は、今まさに熱血整備中で、ちょっと目を離しただけで新しい発見があります。刮目すべし。

吉祥山が遠い
振り返れば本宮山と野田城址・・・・のはずだか、野田城址はどこだ?
鳳来寺山。霞んでる。
弁財天と牟呂用水の取水口松原頭首工。吉祥山が近づいてきた。
大谷橋の看板が立派になった
山の神の道登山口の看板も立派になった
登山道の道標も立派だ。
吉祥天女祠。幸運を祈願。
誰も居ない吉祥山山頂も珍しい。この日はついに登山者に一人も合いませんでした。
宇連山遠望。霞んでるなあ。

今水寺跡(熊野神社)〜往古の大寺院を幻視する

吉祥山の中腹に建てられた今水寺は、鳳来寺と並ぶ中世東三河屈指の大寺院で、吉祥山山頂近くの吉祥天は今水寺の奥の院。その今水寺は、野田の戦いの頃に武田軍に焼かれたとも言われていて、実は武田信玄は今水寺で死んだため、口封じのために今水寺は焼かれ、僧は惨殺されたのではないか、と・・・・・・あり得ないとはいいきれないし、大変魅力的な話しでございます。

旗頭山〜死せる信玄、生ける家康をビビらす

今水寺までは大丈夫だった雨は、旗頭山までは持ちませんでした。きっと、旗頭山まで援軍に来ましたと体裁だけとった家康への定盈の恨み節でしょうか。それにしても、旗頭山までしか野田城に近づけなかったとは及び腰にも程があり、それだけ信玄が怖かったのでしょう。臆したか!家康!6〜7世紀の古墳群であり、愛知県指定史跡でもある旗頭山ですが、道標が無く、我々はアプローチで墓地の中で迷子になりました。家康が野田城救援の前線陣地を置いたと伝えられるのも納得の展望抜群なロケーションが少し残念です。

旗頭山で陣頭指揮を取るNS師匠
ロケーションは悪くない。せめて登山口くらいは道標がほしい・・・

江島駅〜グリーンセンターで五平餅をしばき倒す

JAひまわりグリーンセンター江島にて、この日最大の目的である五平餅を、閉店ギリギリで購入できたので今日は目的完遂です!それにしても、ひっきりなしにやってくる家族連れが、五平餅5本、6本、団子2パック、3パックと、爆買いしていくのを目の当たりにして、これはもう文化が違うと感じました。