歴史と伝統文化の『山上ヶ岳』
森の散歩人

*三度目の大峯山系
5年前の春合宿で行者還岳、七曜岳に登り、始めて大峯山系を知った。

そして今年の春合宿で、八経ヶ岳、弥山、行者還岳、女人禁制の山上ヶ岳を一つ飛ばして稲山ヶ岳に登った。山上ヶ岳へは山頂まで約2時間の分岐点・山上辻を踏んでおり、その登山基地・洞川(ドロカワ)で幕営した。
ここには、昔ながらの旅籠風の旅館が小さな町並みの両側にびっしり並んでいる風景に驚かされた。温泉街の感じを受けたので、昔からの関西の奥座敷か湯治場が珍しくまだ残されているのかと思っていた。

こんなことから、気候のいい秋に山頂の宿坊に泊まり、参詣道を歩こうと男性数人で語り合っていた。そろそろと思っていた頃、K氏から5月3日の大峰山寺戸開式から9月23日の戸閉式までの間しか、宿坊や茶屋は営業していないとの連絡を受け、今年の山行はあきらめていた。

9月中旬、突然S氏から計画立案の連絡を受け、洞川でのテント前夜泊の山行が急遽実現した。今回は登山口近くのキャンプ場にテントを設営。夕食は外食することとし、登山口付近を散策して温泉街へ引き返す。ところが当日は商店街の休業日で、旅館とダラニスケ販売店以外はどこも店が閉まっていた。(2005.10.26)

外はすでに暗い5時半ごろ、やっと営業中のお好み焼き屋を見つけた。まだ店には誰もいなかった。気さくな御上さんは、私たちの問いかけに土地の生活者としての語り口で大峰信仰、洞川の生活史などについていろいろお話いただき、参考になった。地元の鹿の刺し身も美味。旅なれたSの配慮で楽しい夕食になった。

洞川集落の街並みは、よく見ると沢山の陀羅尼助専売店と旅館が立ち並び、旅館は陀羅尼助販売店を兼ねている。街ぐるみ、昔からある和漢胃腸薬のダラスケ屋さんで、私の春合宿のイメージは大間違いだった。  

   
洞川集落の町並み

*錦秋の山上ヶ岳を歩く(2005.10.27)

   

翌朝、雨上がりを待って、春合宿で歩いた稲山ヶ岳へのルートを進む。山上辻の分岐から山上ヶ岳へのルートをとる。始めは道幅の広いしっかりしたルートが続いていたが、次第に細く崩れやすい山腹沿いのルートに変わる。やがて女人結界のあるレンゲ辻に到達するが、この間は一般登山道と変わった点は全くなかった。

結界門前には、女人禁制協力依頼の掲示板がある。結界地に入ると、急な岩稜帯登攀や痩尾根歩きが続き、鎖や階段が整備されているが、案内板、休憩所などの施設はない。参詣道に出会うと山頂はすぐ近くにある。
山頂からは、春合宿で風雨やガスで視界ゼロだった稲村ガ岳を真正面に、大峰山系の山々の素晴らしい展望が開けていた。

   
山上ヶ岳山頂からの稲村ガ岳 閉山中の大峰山寺

下山は、山頂の大峰山寺から洞川・大峰大橋までの参詣ルートを下った。
ここは登りルートと一変し、登山道もたいへんよく、信仰登山関連の諸施設がびっしり整備されていた。山頂には500人収容の立派な山上宿坊街があり、西ノ覗などの修験の行場もいずれもよく整備されていた。 また参道沿いには、百人以上も休める大きな茶店や陀羅尼助販売店が、何軒もあり驚いた。

私たちが山上ヶ岳へ登ったのは、戸開期間外の平日ではあったが、紅葉の最盛時にもかかわらず入山中、登山者には全く出会わなかった。ここはやはり信仰登山の山だろうかと思った。 

*大峰信仰登山
今回の山行は戸開期間外で、実際の信仰登山の姿は見られなかったが、地元の方々のお話、参詣道や街の様子、資料などを総合すると、実に意外な姿が浮かんできた。(以下は、私の勝手な想像を含んでいます)

山上ヶ岳へは、年間6万人位の人、そのうち9割以上は洞川から登っている。洞川から登るほとんどの人(5万人くらい?)は、参詣道を利用する講社(例:御嶽講)で組織化された信仰登山者のようである。

   
山頂宿坊街(500人収容) 閉山中の茶屋(真ん中は登山道)

修験道で修行を積んだ先達(せんだつ)が、たくさんの信者を集めて時には法螺貝を吹きながら道案内をし、馴染みの宿で泊まり、馴染みの茶屋で休み、大峰山寺にお参りし、馴染みの店で陀羅尼助を買って帰る。標高800mで米もできない山間僻地の洞川の人達は、馴染みの客を大切に接待しながら、生活の基盤を何百年も維持して来たようである。 

この僻地で女人禁制の宗教形式と重なりながら、平安時代からの熊野詣参拝の作法や組織が、今もなお同じような組み立てで維持されている姿は、たいへんな驚きであり、まさに生きた貴重な『超・伝統文化遺産』だと思った。(洞川の街並み中心地は、大峰奥駈道から外れているので、世界遺産の指定地域になっていない)

こうした大峰信仰登山は、かっては奥駈道の出発点になっている吉野山からも盛んであったらしい。しかし今では参道沿いの茶店も無くなり、利用する人もほとんどなく、結界門も吉野から春合宿に車で通った五番関の茶屋跡に移されている。

先達の高齢化、後継者難から洞川を基地とした大峰信仰登山者も減少傾向にあるらしい。林業不振もあって、温泉、名水、自然食品、鍾乳洞、自然環境などの観光資源を活かした村おこしも続けながら、伝統的生活基盤である大峰信仰登山を維持したいと、必死に努力して見えるようである。

*女人禁制
女人禁制は大峰信仰登山の柱の一つになっている(熊野詣は女人禁制ではなかった)。これには組織的な反対運動もあり、また黙って意識的に制度が侵されている事例もあるようだ。こまま放置していると、登山者を含む観光客に踏み荒らされてしまうかも知れない。

   
レンゲ辻結界門 山上大橋結界門

修験道、山伏ー先達、陀羅尼助、宿泊所、茶屋、講社、信者、信仰登山などの中世から続いた最後の伝統舞台が消えていくのは寂しい。できれば皆の理解と協力で、日本のどこかの片隅でこんな歴史的舞台が残っていてもよいような気がする。

こんな思いから、先日の全国労山自然保護集会の「入山規制と入山料分科会」に出席し、地域の文化と自然の保護の観点から、女人禁制についての検討を提案しましが、採り上げていただけなかった。

*陀羅尼助との出会い
これまでの文中で、陀羅尼助(ダラニスケ)の文字は度々使用したが、今回の山行で、わたしがもっとも興味を持ったのは、この和薬である。この薬は、大峰信仰登山形成にきわめて重要な役割を持っており(私の独断?)、またそのルーツにたいへん歴史的ロマンを感じた。

地元の資料から若干講釈を。陀羅尼は修験道の一経典の名前、助は人を助ける意。山伏が人を助けるのに用いた薬とされている。大峰の山伏が修験道布教のため全国を駆け巡った折、一緒に薬を広めた。文楽浄瑠璃や歌舞伎で洞川、大峰の陀羅尼助の売屋や口上が出ており、江戸の狂言作家の一話一言にもとり上げられており、古くから各地でその名が知られていたらしい。
 
陀羅尼助の主原料は、キハダの木(ミカン科)の内皮のエキス(黄柏)である。この木自体は日本の山地で広く分布しており(現在は外材使用)、同じような薬効の和薬が各地で製造販売されている。(御嶽山の百草、大山の煉熊、石槌山の陀羅尼薬など)。陀羅尼助の名前でも高野山、吉野山、大和葛城山でも製造販売されている。
 
古くから万病薬として親しまれ、近代医学の時代でなお愛用者の多いこの種の和薬が、人口800人余り、江戸時代には約150戸、600人の不毛の小さい集落・洞川でもっとも早くから陀羅尼助として生まれ、もっとも広く普及し、今なお、住民の生活を支える大切な基盤として続いている。それが私には不思議で、不思議でたまらなかった。帰路、老母への土産に、立派な包み紙の陀羅尼助丸を購入した。

とてもその検証はできないが、大峰信仰(心・システム)、陀羅尼助(物・経済)、勤勉で誠実な人(洞川)がうまく融和し続けてきた結果(果実)のような気がする。どうか洞川の皆さん、これからもお元気でお暮らしください。

コウヤマキ(高野山)、ミズキ(扇川)、オニグルミ(木曾川)に次ぐマイツリーとして『キハダ』をしばらくフォローして見たいと思っている。よいフィールドを教えてください。私の直近のフィールドは、東山植物園の内・外です。 
(未了)
*Sさんの峠蕗用写真
   
洞川集落からの山上ヶ岳(さようなら) 「まんぷくや」で夕食

(来年は花見がてら吉野山に登りたい)

(2005.11.24)